WEB文庫

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私のふるさと御宿へ

 御宿は海女の町です。駅に降り立つと、ホームに海女の像が建っています。
 祖母も母も海女をしていました。海女の像の顔と母の笑顔が重なって私の胸はやさしさにつつまれます。
 一昨年、十二年間看病した主人が八十歳で亡くなりました。今私は、長男家族の許に身を寄せて一日一日を生かされています。
 昭和三年五月二十八日、私は御宿町岩和田港の近くで生まれました。この日、港の上の岬に建立された記念塔が竣工しました。
 十七メートルの白亜の記念塔は、戦争中には、黒くぬりつぶされましたが、戦後は、白く輝いています。この記念塔を地元の人達は「メキシコ塔」と呼んでいます。
 今から四百年前、この岬の入り江にメキシコの帆船が座礁したことがありました。
 乗組員三百十七名を村人達が総出で救出したのです。
男たちは裸で荒れ狂う波にとびこみ、海女たちは肌であたためて助けました。
 徳川家康は一行に船を与え、無事に帰国させたのでした。
 その後、メキシコとの交流を記念して、この塔が建てられたのです。その先祖の血が私にも流れていることを誇りに思って生きてきました。
 昭和五十三年、メキシコの大統領が御宿を訪れ、村人と一緒に日の丸の扇をふって、みこしをかつぎお祝いをしました。
 私の父と母は、長男とひとり娘で、恋仲になりました。しかし、両家が結婚を許さず、この記念塔の丘でしめし合わせて、山を越え、隣り村の駅から汽車で風呂敷つつみ一つでかけ落ちをしました。村人は幾日も提灯を持って、海辺や山中を探し回ったと言うことです。
 東京の深川で、身ごもった母は、御宿の実家で私を産み、かくれるようにして私を抱いて深川へもどりました。
私が七歳の時、小学校へ入学するため、私は祖父母に預けられました。
 籍が入らないまま母方の苗字で入学した私は、「私生児」「かけ落ちの子」「東京っ子」と、いじめられました。
 祖父は漁業組合の勤めを一ヶ月休み、毎日私と一緒に学校へ来てくれました。
 一番後ろの小さな椅子に腰かけて、にこにこしていました。お昼になると大きなにぎりめしを食べていましたが、私のお弁当はいつも祖母のおいしい卵焼きでした。  放課後になると祖父は私たちと一緒に廊下の雑巾がけをし、窓ガラスをふいてくれました。花壇の草むしりも女先生と一緒になってしてくれました。
 そのうちに私も皆と友達になり、級長にも選ばれました。海女さんたちにもかわいがられ、入り江の海女小屋に遊びに行くと、焚き火で焼いてくれた、アワビやサザエを竹串にさして、フウフウ言いながら食べた、おいしさと楽しさが今でも忘れられません。
 私が二年生のとき、母が正式に結婚し、父方の大原町へ転校しました。
女学校を卒業した私は、予科練出身の元特攻の主人とめぐり合いました。私が二十歳、主人が二十二歳のとき、この記念塔の下で結婚の約束をしました。七月七日、七夕の夜でした。
 結婚生活では苦しい時、つらい時もありました。でも、いつも私の胸の中にふるさとの記念塔がそびえ、力強くはげまされました。
 十二年間、寝たきりの主人の看病も二人の息子に支えられ、やさしく明るく、看とることができました。
 童謡の「月の沙漠」の発祥地です。朝、昼、夕には記念塔の丘から、町に、海辺に、やさしく時を告げチャイムが流れます。
砂丘のつづく海辺には、二頭のラクダに乗った王子と王女の像が海を見つめて建っています。
 作詩された加藤まさを先生も御宿を愛され、晩年はこの地に越されて永眠しました。
 夏は、海水浴客が白い砂浜を埋め、四季を通じてサーファーでにぎわっています。
 記念塔の下の墓地には私を愛してくれた、祖父母が眠っています。
 そして小学校、五年、六年と教えていただいた恩師が、九十六歳で、奥様も九十歳で、ふるさとにご健在でいらっしゃることは、ありがたいことでございます。
 丘から見下ろす海は、私の生まれた頃と少しも変わらず、海人舟が浮かび青くひろがっています。
 最近は海女さんも少なくなり、伊勢エビ、アワビ、サザエなども少なくなりました。
 昔のような豊かな海になってほしいと私は願っています。
 八十年、私と一緒に建っている記念塔。
すばらしいふるさとのある私は幸せでございます。「月の沙漠をはるばると・・・」口ずさむとふるさとが目の前いっぱいにひろがります。“ふるさとありがとう”と心から感謝している私です。
                         河野 ひさ江